今週、小学館が出している「総合教育技術」という雑誌の存在を知りました。
小学校や中学校の管理職や中堅以上の方々が定期購読されている雑誌のようなのですが、その2月号には、道徳という教科ができることに対しての、歴史的考察、賛否の意見の論拠など、さまざまな意見が掲載されておりました。
これを読んで感じたのは、いじめ問題に手を焼く大人(文科省とか教育委員会とか?)が、「これが正しい」ということを子どもに教育したい、という情熱です。
私が、勤務する常磐大学に初めて行き、初めて会った学生たちの印象は、幼稚なくらいに素直で素朴、でした。
この印象は今でも変わっていません。
思春期を通して、大人になるための心のトレーニングが活発に行われていれば、「うそも方便」とか「ひとの噂も75日」とか、状況に応じた、割り切った態度・対応ができるようになります。
これを悪知恵とも呼びますが、「清濁あわせ飲む」ことを年相応にわかってくるのが大学生だと思っていました。
ところが、大学で教え始めて早7年だか8年だかになりますが、素直で素朴、悪く言えば中学生から成長していない印象の学生ばかりです。
彼らが、こんなに素直なのは、生まれてこのかた、良いこと・正しいことしか教えてもらっていないからなのではないか、とすら思います。
たとえば、日本ではマネー教育がされません。
マネー教育には、お金の性質を知ることから、投資に関する知識を学ぶことまで含まれると思いますが、もっとも優れた教科書は、実際に起こったマネーに関する歴史的な事件でしょう。
この中には、頭の働く悪党も登場し、善意の人間がだまされる、という古今東西変わらぬストーリーがちりばめられています。
つまり、悪とは何か? 善意も悪になる場合がある、といったことを、具体的に教えてくれる大人が存在していないのではないか、と感じるのです。
道徳にしても、宗教の比較論的論考なしに、グローバルな人間教育は考えられません。
日本のように多神教で、誰でも発言が自由にできて、誰もが自由に国境を越えられる国は、実は世界にほとんどないことを前提に考える必要があると思っています。
一神教の国の価値観は、神様からの要求(Requirement)によって多くが形成されています。生活習慣もそうです。
先進国の多くが、自由に発言できて、生活も自由かといえば、それは違います。
アメリカはキリスト教国家であり、ゴールデンタイムのテレビでゲイが登場することはほとんどありません。差別しない、という法律が彼らを守っているだけです。
ヨーロッパの多くは、日曜日にはスーパー等、すべてお休みです。日曜日はキリスト教において、休息日であるためです。
もっとも、最近では安売りスーパーが、日本並みの365日営業を始めていたりして、少しずつ崩れてきているようですが、法的には違法です。
私の、欧米生まれの友人たちの多くが、バブル崩壊後、いったんは日本を離れたものの、この20年でほぼ全員が戻ってきていることも、日本の自由さの表れだろうと思います。
つまり、多神教の日本において、他者を認め、受け止めることは、一神教の国より容易だということです。
それなのに、なぜいじめはなくならないのか?
それは道徳教育が行われていないからなのでしょうか?
私が学生と話をしていて感じるのは、物事の本質やはじまりを、ほぼ、まったく知らない、ということです。たぶん彼らは、「なぜなのか?」という疑問を持たずに育ってきているからでしょう。または、「考える」癖をつけられていないのではないかと思います。
考える癖がついていて、どんなことにも疑問を持つことができれば、自然と、学ぶ楽しさ・面白さが身についてくると思うのですが、そういうことにはなっていないようです。
あえていえば、道徳教育は、人間とは何か、宗教とは何か、を学ぶ教科だと思います。つまり哲学ですね。
たとえば、仏教でもキリスト教でも、神道でも、人が人を殺すことはいけない、と言っているのはなぜか、という議論をするのであれば、学生たちも考えると思います。
考える癖を持たない彼らに対して、どうやって考えてもらえるような工夫をするのか、が、道徳教育において、もっとも大切なのではないか、と思います。
一方、マナーを教えたり、法律を教えたり、精神医学のことを教えたり、といったことが道徳教育を補完する側面もあります。
昔から貧しい家庭の子供はからかわれ、いじめられる傾向にありますから、なぜ貧困はあるのか、どうしたら貧困がなくなるのか、といったことから、経済の仕組みを議論することも重要かもしれません。
いずれにせよ、教科書を読んで覚えさせるような道徳ではダメだと思います。
きれいごとだけ上手にいえる、心のきれいないじめが登場するに違いありません。
小学校や中学校の管理職や中堅以上の方々が定期購読されている雑誌のようなのですが、その2月号には、道徳という教科ができることに対しての、歴史的考察、賛否の意見の論拠など、さまざまな意見が掲載されておりました。
これを読んで感じたのは、いじめ問題に手を焼く大人(文科省とか教育委員会とか?)が、「これが正しい」ということを子どもに教育したい、という情熱です。
私が、勤務する常磐大学に初めて行き、初めて会った学生たちの印象は、幼稚なくらいに素直で素朴、でした。
この印象は今でも変わっていません。
思春期を通して、大人になるための心のトレーニングが活発に行われていれば、「うそも方便」とか「ひとの噂も75日」とか、状況に応じた、割り切った態度・対応ができるようになります。
これを悪知恵とも呼びますが、「清濁あわせ飲む」ことを年相応にわかってくるのが大学生だと思っていました。
ところが、大学で教え始めて早7年だか8年だかになりますが、素直で素朴、悪く言えば中学生から成長していない印象の学生ばかりです。
彼らが、こんなに素直なのは、生まれてこのかた、良いこと・正しいことしか教えてもらっていないからなのではないか、とすら思います。
たとえば、日本ではマネー教育がされません。
マネー教育には、お金の性質を知ることから、投資に関する知識を学ぶことまで含まれると思いますが、もっとも優れた教科書は、実際に起こったマネーに関する歴史的な事件でしょう。
この中には、頭の働く悪党も登場し、善意の人間がだまされる、という古今東西変わらぬストーリーがちりばめられています。
つまり、悪とは何か? 善意も悪になる場合がある、といったことを、具体的に教えてくれる大人が存在していないのではないか、と感じるのです。
道徳にしても、宗教の比較論的論考なしに、グローバルな人間教育は考えられません。
日本のように多神教で、誰でも発言が自由にできて、誰もが自由に国境を越えられる国は、実は世界にほとんどないことを前提に考える必要があると思っています。
一神教の国の価値観は、神様からの要求(Requirement)によって多くが形成されています。生活習慣もそうです。
先進国の多くが、自由に発言できて、生活も自由かといえば、それは違います。
アメリカはキリスト教国家であり、ゴールデンタイムのテレビでゲイが登場することはほとんどありません。差別しない、という法律が彼らを守っているだけです。
ヨーロッパの多くは、日曜日にはスーパー等、すべてお休みです。日曜日はキリスト教において、休息日であるためです。
もっとも、最近では安売りスーパーが、日本並みの365日営業を始めていたりして、少しずつ崩れてきているようですが、法的には違法です。
私の、欧米生まれの友人たちの多くが、バブル崩壊後、いったんは日本を離れたものの、この20年でほぼ全員が戻ってきていることも、日本の自由さの表れだろうと思います。
つまり、多神教の日本において、他者を認め、受け止めることは、一神教の国より容易だということです。
それなのに、なぜいじめはなくならないのか?
それは道徳教育が行われていないからなのでしょうか?
私が学生と話をしていて感じるのは、物事の本質やはじまりを、ほぼ、まったく知らない、ということです。たぶん彼らは、「なぜなのか?」という疑問を持たずに育ってきているからでしょう。または、「考える」癖をつけられていないのではないかと思います。
考える癖がついていて、どんなことにも疑問を持つことができれば、自然と、学ぶ楽しさ・面白さが身についてくると思うのですが、そういうことにはなっていないようです。
あえていえば、道徳教育は、人間とは何か、宗教とは何か、を学ぶ教科だと思います。つまり哲学ですね。
たとえば、仏教でもキリスト教でも、神道でも、人が人を殺すことはいけない、と言っているのはなぜか、という議論をするのであれば、学生たちも考えると思います。
考える癖を持たない彼らに対して、どうやって考えてもらえるような工夫をするのか、が、道徳教育において、もっとも大切なのではないか、と思います。
一方、マナーを教えたり、法律を教えたり、精神医学のことを教えたり、といったことが道徳教育を補完する側面もあります。
昔から貧しい家庭の子供はからかわれ、いじめられる傾向にありますから、なぜ貧困はあるのか、どうしたら貧困がなくなるのか、といったことから、経済の仕組みを議論することも重要かもしれません。
いずれにせよ、教科書を読んで覚えさせるような道徳ではダメだと思います。
きれいごとだけ上手にいえる、心のきれいないじめが登場するに違いありません。
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