延喜式に記載され日本武尊が創建したとされる二つの神社




地元・福島県内で気になっている市町村のひとつ、棚倉町に行ってきました。

棚倉町は、城跡もあり、古い神社があり、お寺も多いという、歴史的には地理的要衝だったことをうかがわせる建築物が多々あるからです。

水郡線を使うことも多いので、駅名にはなじみがありますが、まったく未知の場所。
たまたま時間があったので、前から気になっていた神社にお参りしてきました。




奥州一ノ宮 八槻都々古別神社

最初に赴いたのは、八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)。

行って驚いたのは「奥州一之宮」という文字。

奥の院のある社殿が立派


奥州一之宮ということは、東北一帯でもっとも格式が高く、歴史も古いということ。

社殿も江戸時代中期の建築で、おもいのほか立派な神社なのです。

江戸時代中期の建築物

アートイベントを毎年開催

ちょっと珍しい神話おみくじ

読んでみると小吉くらいの内容

思いがかなったので、さっそくブログに書こうと思って、八槻都々古別神社の来歴を調べてみたら、なんとここは中之宮!

ほかにも関連する神社があったのです。


陸奥一之宮 馬場都々古別神社


重要文化財の本殿

馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)は、都々古別三社(馬場都々古別神社、八槻都々古別神社、下野宮近津神社)の上の宮にあたります。

つまり、こちらのほうがそもそも本家ということでしょうか?

どちらもご祭神は、味耜高彦根命(あぢすきたかひこね)・日本武尊(やまとたける)。

馬場都々古別神社・八槻都々古別神社とも縁起において、景行天皇(第12代)の時に皇子の日本武尊が創建したという伝承が残っています。

棚倉町タウンガイドによると、
『かつて「東夷」を鎮定した日本武尊(ヤマトタケル)が、初め建鉾山(白河市)に鉾を祭り、のちに大同二年(807年)坂上田村麻呂が近世棚倉城の地に移したと伝えられます。寛永元年(1624年)に棚倉藩主丹羽長重が棚倉城を築城するため現在の地に神社を遷宮しました。』
とあり、馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)が、何度も場所を変えたことがわかります。

これが原因で、どちらが本社でどちらが分社なのか、はっきりしないのだと思いますが、神社全体の大きさでみると、わたしは馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)が本社だと感じました。

一の鳥居から本殿まで600メートル!



一の鳥居から二の鳥居までが直線ストレートで約400メートル。

両脇には神職や関係者が住まうことで、高い建物などが建設されて参道の景観が損なわれることを妨げてきたと、偶然お目にかかった宮司さんにうかがいました。

さりげなく菊の御紋が

磐座

近代社格制度において国幣中社に列されたことから、菊の御紋があしらわれた石橋があったり(明治7年に許されました)、磐座があったりして、日本武尊以来の、神話とのつながりを感じます。


延喜式神名帳に記載されたふたつの神社

平安時代、905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たったに編纂された「延喜式」に、八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)、馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)ともに記載があります。

延喜式神名帳に記載があるのは、当時朝廷から重要視された神社であり、一般に式内社と言って社格の一つとされているそうです。

『続日本後紀』承和8年(841年)で、勲十等の「都々古和気神」が従五位下の神階に叙せられているという記録もあります。

いずれにせよ、古いことは間違いなさそうです。

どちらも棚倉町にありますので、お参りするときには両方の神社にいらしてください。



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都々古別神社
近代社格制度
国指定重要文化財 陸奥一之宮 馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)

奥州一之宮 八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)


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