【山下 克明】「陰陽道の発見」




陰陽道の発見」読了。
歴史家・山下 克明先生による、陰陽道について丹念に文献調査などを行った研究の書です。
2010年に刊行されたもので、最新の陰陽道と陰陽師に関する研究の成果が網羅されており、今まで何冊か読んだなかでは、もっとも体系化されて説明されていて、とても参考になりました。



明治3年に廃止される陰陽師

現代に生きる私たちにとってすら、「大安だから良い日」「友引は葬式がない日」といった情報が日常的な存在です。
この大安とか友引といった情報が、暦をつくるうえで大変重要だった時代があります。

平安時代、藤原道長のころを頂点とする平安貴族の時代が代表的であり、その後も暦に書かれる情報が重要視される時代がつづきます。

天武天皇が正式に陰陽寮という役所を設置し、陰陽寮が暦をつくる役割を担っていました。天文博士、暦博士、漏刻博士、陰陽博士がいて、当初から天文観測をして、日時を管理することが目的でした。

ここに、占術や呪術が加わり、陰陽道として日本で形作られたのが平安時代です。
そして、その後も時の政権に寄り添うように陰陽道は生き続けます。

その陰陽道が正式に廃止されたのは、明治3年、土御門家への陰陽師免許交付の廃止によります。
土御門家とは、陰陽師の代名詞ともいえる安倍晴明の家系のことです。

陰陽師としての免許を連綿と交付していた天皇家がこれをやめたことにより、実質的な陰陽師という職業がなくなったともいえます。

そもそも陰陽師とは天皇に使える役人であって、それ以外の民間の陰陽師的な役割を担った人々は「法師陰陽師」とか「声聞師」などと呼ばれていました。

陰陽道の発見」には、「枕草子」や「紫式部日記」などに書かれた民間陰陽師の様子なども紹介されていて、平安時代の貴族とともに陰陽道が成立していった過程が説明されています。


現代にも生きる五行説

陰陽道の発見」では、陰陽道を「日本的宗教文化」としてとらえています。
なぜ日本で陰陽道が成立したのか、というテーマについて、丹念に資料を紹介することによって、その背景について分析しています。

たとえば、陰陽五行説は中国の戦国時代に発展してきた思想です。
陰と陽、木・火・土・金・水の5つの素材をベースにしたもので、これらの循環によって世界は成り立っていると考えられていました。
また五行説は、解釈が拡大されて、季節や十二支、方位、色、和、五臓(内臓)、感情などとも関連付けられていきます。

これに王朝の徳を関連付けたのが鄒衍(すうえん)です。
戦国時代の斉の方士(神仙術の専門家)であった鄒衍は、五徳終始説を唱えます。

これは王朝の交替・変遷を五行の循環で説明するもので、王朝にはそれぞれ五行に応じた徳があると考え、五行相生・相剋を、王朝交代や革命理論に適用しようとしました。

始皇帝が天下を統一したときに、鄒衍の五徳終始説にもとづいて秦の徳を水徳とし、諸制度を改めた受命改正は有名です。

すなわち、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝つという相剋(点線矢印)の関係によって王朝が推移しているという革命的な思想をベースとして、周の文王(ぶんおう)の火徳に対し、秦の始皇帝は水徳によってこれに勝ったという考え方です。

後には、争わずに王朝を交代する禅譲も視野にした相生(実線五角形)によって順番に推移するという考え方も加わりました。

このような五行説に考え方は、現在にも生きていて、九星気学のなかには深く根ざしています。自然を見つめることから発生してきた五行説が陰陽道の根本にはあります。


董仲舒と易姓革命

中国・前漢時代の儒学者であり『春秋』学者でもあった董仲舒は、儒教を正当な教学とすることを建策した人物です。
歴史を学ぶと必ず出てくる人物ですが、この董仲舒は、天地の自然現象を儒教の易姓革命のなかに取り入れました。

儒教では、天が徳のある君主に天命を下して地上の支配を委任していると考えられています。その君主に失政が続き、天子としてふさわしくないと天が判断したとき、天命が改まって王朝が後退します。これを易姓革命といいます。

董仲舒は、「天と人との間に共通する陰陽の気を媒介として、君主が不徳を行えば、民衆の不満が陰陽の秩序を乱し、それが天に感応して君主を譴責し、なお失政を改めなければ天はこれを滅ぼす」と説きました。

自然現象ではあるのですが、災害や怪異な現象はすべて、政治の失敗による君主や為政者への天の警告であるとしたのです。これを災異思想といいます。

いっぽう、君主が善政をおこなえば、麒麟や鳳凰が現れたり、瑞草・景雲などが現れたりするという瑞祥の思想も説かれました。

いまでも、彩雲を見たり虹をみたりすると、なにか良いことがあるかも、と考える人が多いように、古代においては珍しい自然現象(災害)は、天からのメッセージと考えられていたのです。

このような思想のもととなっている陰陽五行説は、儒教・道教・密教などに影響を与え、現代にも生きています。

以前このブログで紹介した「陰陽師たちの日本史」では、天と人との関係を「天人相関説」として取り上げていました。

なぜ国をつかさどる者たちが天文観測を行い、暦を作っていたのかといえば、暦為政者の失政といわれないために、日食や月食などはあらかじめ予測しておかねばならず、長雨や干ばつなど農作物に大きな影響を与える自然現象なども予測できることが重要課題であったからです。

事前に予測できていれば、それは天の意思ではないことになります。
つまり災害は起こるべくして起こったのであって、失政があって災害が起こったのではない、という考え方です。そのため、暦の正しさが重要であるため、天文観測からただしい暦を作ることが国家にとっての命題となります。

そして、災異の思想を取り入れた董仲舒は、初期の陰陽道において原典として採用されるようになります。


律令政治から摂関政治へ

儒教にも影響を及ぼした陰陽五行説ですが、儒教は法律をもって政治を行うという合理性がありました。
能力次第で身分に関係なく官人として採用され、出世もできた律令政治から、藤原良房が首謀者といわれる承和の変(842年)によって、藤原氏による摂関政治へと変化しました。


この承和の変の前後で、陰陽寮の役割が大きく変わっていきます。

その一端ともいえるのが、淳和天皇や嵯峨天皇による、伝統的な葬儀の拒否です。
これら天皇は、自らが災いの原因とされることに耐えられず、なかでも淳和天皇は墓をつくらずに、山野に遺灰をまくようにと命じました。この遺言通り、淳和天皇の遺骨は山にまかれました。

なぜこのような命令をしたのかといえば、多くの場合、災異は、亡くなった天皇とその山陵に原因が求められたためです。

そして嵯峨天皇は、遺言で「卜筮を信ずることなかれ」と示しましたが、その2年後には「卜筮を信ずべき朝議」(844年)という形で完全に覆されます。

陰陽道の発見」では、これらの事柄を次のように説明しています。
嵯峨は儒教的合理主義の立場から<物怪=祟り>観と、その際の卜占使用を否定したのである。彼は、9世紀前半の律令制支配の衰退期にあって、儒教的徳治や文章経国の理念をもって支配の再生をはかろうとしたが、この遺言は、災害や怪異は不徳・失政による天の戒めであるとする儒教的立場から、これを神霊の祟りと見て卜占に頼ろうとした貴族勢力に対する批判であったのである。

つまり、災害は天の意思によるものという儒教的思想から、いつの間にか、天皇をはじめとする神や霊に原因をもとめるようになったからなのです。

この変容によって得をするのは誰でしょうか?

災害や怪異は、為政者の失政が原因だとする儒教的思想は、いつまでも実権を握り続けたい人々にとって都合の悪いものです。

身分を固定し、才能ではなく家柄で採用される摂関政治を主導する藤原家こそ、災害や怪異は天の意思ではなく、怨霊や神(神社)が原因だとすることで不動の地位を築いていきます。

為政者の政治責任を回避するために利用されたものが陰陽道であったともいえます。


現生利益的な陰陽道

「日本的宗教文化」の陰陽道とは、現生利益的なものです。

いま起こっている災害や怪異が、死霊や生霊のしわざであったり、先祖のしわざであったりと原因を求め、これを除去するために祭祀を執り行い、まじないを唱えます。
病気の原因やわざわい全般を祓うことができるものが陰陽道です。

現在の宗教観においても、現生利益的なテーマを掲げることが多いのも、日本人が現生利益を求めるからではないでしょうか。

死後の世界観よりも、現生利益的なものをもとめるのは、どうも日本人の特質のようです。

戦国時代に来日したイエズス会のルイス・フロイスは、キリスト教が日本人にとってどのようなものかを記しています。
  • 日本人はロザリオを異常なほどに大切にする
  • 紙に書いた十字架をお札として大切にする
  • 仏教や神道よりも霊験があり、呪術的だと信じている

どうも当時の日本人は、キリスト教における死後の世界というものを理解して改宗しているわけではなく、キリスト教の祭儀などに呪術性を見出し、従来の宗教よりも祓う力が強いと考えていたようです。

現生利益を追求する姿勢は、古代から現代まで日本人に通底しているように思いますが、宗教人ではない私にはこれ以上は書けません。
もう少し勉強せねば!


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